ハプスブルク家の家領としてのオーストリアは13世紀に始まり、積極的な婚姻政策で、15世紀までにスペイン・ネーデルラントに広がった。 その支配地はヨーロッパ各地域に及び、フランスのヴァロワ家、ブルボン家と対抗するようになった。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); ハプスブルク・スペインは、輝かしい栄光を残しながら僅か5代で終焉を迎えたのですが、その最後の統治者こそがカルロス2世 (チャールズ5世) です。名前が二つあるのがややこしいのですが、チャールズ5世は神聖ローマ皇帝としての名前です。この時代ひとりがいくつもの役目を担うことが多かったため、それぞれに名前がつけられているのがややこしいところです。, 彼にはこの強大な王国を治める権利が与えられていましたが、数々の健康障害と貧弱な知性のせいもあり、曰く付きの、病弱な統治者として歴史に刻まれています。, いままでの研究において、過去の歴史記録においてもカルロス2世は『彼の精神的および身体的な状態は、彼の誕生前に何十年にもわたって王室が繰り返してきた近親交配の結果である』と定義づけられていたことがわかっています。彼の身に起きた悲劇が何であったかは、過去の時点ですでに判明していた(仮定されていた)のです。, ハプルブスク家特有の顎と受け口は、カルロス2世の肖像画にも顕著にみることができます。際立って細長い頭蓋骨と出っ張った顎を持ったカルロス2世は、控えめにいっても魅力的ではありませんでした。, 弱っていた彼の数々の奇形は、迷信がはびこっていた時代に生きていたこともあり、先天的な心臓病のためか、または「悪の力」によるものだといわれました。唯一の世継ぎ候補であったフェリペ皇子を亡くしたばかりの王室。全ての人が「希望の子」と読んだ彼は、のちに「呪われた子」と呼ばれるようになったのです。, カルロス2世は、フェリペ4世と彼の2番目の妻マリアナの間に生まれました。父フェリペが高齢だったこともあり、カルロス2世が王座についたのは、1665年9月わずか4歳でのことでした。もちろん幼子に統治はできませんので、母親のマリアナが摂政の役割を果たしました。, ただ年齢を重ねても一向に知能が成長しない彼への教育を宮廷は諦め、「王室の将来」を考え「とにかく彼の命を存えさせる」ために奔走するようになります。彼がどんなに失敗作であれ、その子供はまともかもしれない。そのためカルロス2世は読み書きをほとんど学ばず、また王室にふさわしい教育を受けることもできませんでした。そのため彼は統治に必要な知識を学ばずに育ちました。, 彼の行動の幼稚さを示す記録がいくつか存在しています。作家のウィル氏とアリエル・デュラント氏は、著書で「カルロス2世は背が低く足が不自由で、てんかんを患っており、老人性で、35歳に至るまでに完全に禿げていた」と指摘し、また「彼は生まれた時から死に瀕していた」とも述べたのも彼です。王が弱いために、スペインの領土に影響を与えようとした他のさまざまな支配者の関心の対象となりました。カルロス2世は、彼を取り巻いている人々の影響下に置かれ、簡単に餌食になったと言われています。, スペインの科学者グループにより、チャールズ2世と、16世代にわたる王の祖先が分析されました。彼らの研究結果は2009年のPLOS One誌に発表され、それによると「15世紀から16世紀にかけて一族のなかでは少なくとも11組の結婚が血縁関係にあった」ということがわかりました。これは彼らが共通の祖先をもっていた、つまり「血縁者同士」の子孫であったことを示唆しています。結果として血が以上に濃くなり、劣等遺伝子が顕著に受け継がれていくことにより、子孫にしわ寄せがいき身体が弱っていったのでした。, Telegraphのレポートによると、この調査では「カルロス2世が最高の近交係数を有していた」ことも判明したといいます。さらに、この王朝で生まれた新生児の約半数は、近親交配による健康上の欠陥のために、1歳未満で亡くなっていたこともわかりました。, 多くの人の予想に反してカルロス2世は成人し、命をながらえ、39歳の誕生日のわずか5日前にこの世を去りました。ただ身体には多くの疾患を抱えて、病気に満ちた人生を送っていたといいます。妻を2人迎えますが、当然子が作れるわけもなく、愛人も嗣子もなく、スペインハプスブルク家は5代目にして断絶という運命を辿りました。ちなみに故スペイン国王の後継者に指名されたのは、カルロス2世(ちょうどフランス国王ルイ14世の孫)の大甥で、アンジュウ公の16歳のフィリップでした。, スペインの作家ペドロ・ガルガンティラが書いた本『Enfermedades de Los Reyes de Espana (スペイン王の病気)』によると、王の遺体を解剖した医師は、以下のように検死結果を述べたといいます。, 彼の脳は1滴の血液も含んでおらず、彼の心臓はコショウの大きさで、彼の肺は腐食していた。彼の腸は腐って壊疽(えそ)していた。そして彼は石炭のように真っ黒な一本の睾丸を持ち、頭は水でいっぱいだった。(did not contain a single drop of blood; his heart was the size of a peppercorn; his lungs corroded; his intestines rotten and gangrenous; he had a single testicle, black as coal, and his head was full of water. 諸王国および諸 … ハプスブルク家(ドイツ語: Haus Habsburg )は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。. ヨーロッパで次々と勢力を拡大し、強大な統治国家を築いたハプスブルク家。 その華麗なる歴史のはじまりから、栄華を誇った時代、20世紀前半に訪れるハプスブルク帝国の終焉までを振り返ろう。 スポンサーリンク 2020 All Rights Reserved. , 独学で通訳になったNaaの1日5分で明日が変わるブログ 年表. バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。, 血が以上に濃くなり、劣等遺伝子が顕著に受け継がれていくことにより、子孫にしわ寄せがいき身体が弱っていった, 【本当は怖い絵画】ラスメニーナスに描かれた王女、マルガリータ|血族結婚がもたらした悲劇. ハプスブルク帝国とは、”オーストリア系ハプスブルク家の君主により統治された、神聖ローマ帝国内外の領邦国家などの国家群による同君連合“です。もっとわかりやすくいうと、『ハプスブルク帝国 』とは、 1. ハプスブルク王朝の終焉(1848~1918) 1814~1815年にかけて開催されたウィーン会議の後、ヨーロッパは30年に渡って平和を謳歌します。 しかし、オーストリア帝国では宰相メッテルニヒが保守反動体制をしき、自由主義や民族主義の思想を弾圧しました。 カルロス2世 (チャールズ5世)の肖像画 ハプスブルク・スペインは、輝かしい栄光を残しながら僅か5代で終焉を迎えたのですが、その最後の統治者こそがカルロス2世(チャールズ5世) です。 彼には「この強大な王国を治める権利」が与えられていましたが、数々の健康障害と貧弱な知性のおかげで、悪名高い、病弱な統治者として歴史に刻まれています。 Heinz-Dieter Heimann: Die Habsburger. 1526年から1804年の間に 2. Dynastie und Kaiserreiche. エティション家(エティショーネン家)のノルトガウ伯フーゴ3世の子と推測されている。グントラムの出自については瀬原、『スイス独立史研究』に詳しい考察がある。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ハプスブルク家&oldid=77340961, 下津清太郎 編『世界帝王系図集』近藤出版社、1982年 / 増補版・近藤出版社、1987年、. ハプスブルク家という名前は、1020年に建てられたハビヒツブルク城(Habichtsburg)に由来するいわれています。史料的に遡れる最古のハプスブルク家の祖先である「領地持ちのグントラム」の孫で、シュトラスブルク司教の座にあったヴェルナー1世が築城したもので、創建当時は現在のスイス国内で最 … これほど強大な王家はなかったかもしれない、と言わしめたのはヨーロッパに君臨したハプスブルク家。この一族から、ボヘミア、ハンガリー、ポルトガル、クロアチア、ドイツ、スペイン、そしてもちろんオーストリアなどの広大な領土を支配する王が輩出され、16世紀 カルロス2世 (チャールズ5世) の治世には、国土と植民地はアメリカ大陸にまで広がっていました。, しかし輝かしい栄光の一方で、スペインハプスブルク家は黒い歴史で終焉を迎えた、切ない過去を持っている一族でもあります。今日はこの黒い歴史を閉じた、最後の皇帝カルロス2世にせまっていきます。. Copyright© ), 検死所見が本物かどうかはわからないともいわれていますが、『カルロス2世という存在』がすでに衰退しかけていたスペイン王国に黒い歴史を彩ったことは不本意にも事実だといわれています。彼の治世時代にスペイン・ハプスブルク家の勢力は急速に衰えていきましたが、終焉をもたらした根本的な原因は積み重なった近親交配の歴史です。これは「偉大な文明や帝国」をほんとに維持したいのであれば、その場しのぎではなく、「偉大さを発揮できる君主」を常に輩出しなければならない、という教訓でもあるのかもしれません。. 古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。 ハプスブルク大公国と、個人的に同盟を結んだ 3.