戦後の歌謡界に大きな足跡を残した歌手の島倉千代子(しまくらちよこ)さん。nagoyanが島倉千代子さんを知ったのは、「オレたちひょうきん族」という番組で山田邦子さんが島倉千代子さんの大ヒット曲「人生いろいろ」がきっかけでした。今回は、島倉千代子さんの、旦那や子供の画像や死去後の祭壇や墓の現在についてまとめました。, 藤本勝巳さんは元阪神タイガースで活躍するプロ野球選手で、2人の馴れ初めですが、テレビで島倉さんを見た藤本さんが一目惚れだったようです。, 島倉千代子さんの電話番号を入手し、藤本さんがいきなり電話をかけたのが、きっかけでした。, 島倉千代子さんの父親が亡くなり、失意の日々を送っていた島倉千代子さんを支えていたようですが、この結婚に母親は大反対していましたが、それを押し切って結婚しました。, 旦那は、阪神の4番打者でスター選手でしたが、水商売に手を出して事業に失敗してしまいます。, 島倉千代子さんは、離婚した旦那の借金を肩代わりし、6000万もの借金をかぶってしまいました。, 島倉千代子さんは、中絶した3人の子供を合わせて「忍」という名前を付け、その名前を小さな地蔵に付けて肌身離さず持ち歩いたようなので、子供が欲しかったに違いありません。, 7歳の時に左手首に大けがを負い、この時の輸血が原因でC型肝炎になってしまったようです。, 2013年11月14日に東京都港区の青山葬儀所で営まれ、関係者約1000人、一般弔問客約2000人が参列し、最後の別れを惜しみました。, 1万8000本の紫と白の花(リンドウ、からたち、トルコキキョウなど)で 紫の着物の襟を合わせたイメージした祭壇が作られました。, この墓石の 正面には ご挨拶状の 文字「こころ」 が記されており、その横に 戒名 「寶婕院千代歌愛大姉(ほうしょういんせんだいかわいだいし)」とあります。, 戒名は、「美しき日本の宝の人千代(永久)に歌を愛する歌愛い(かわいい)人」という意味がある。, どうもnagoyanです。名古屋を愛するアラフォーです。当ブログは、nagoyanの好きなドラマ、スポーツを中心に気になること書いている雑記ブログです。. You cannot use Uta Net from the countries covered by GDPR. 島倉千代子のcd・dvd・グッズ等の最新ニュース、曲の無料試聴・動画の無料視聴・購入、ライブ・イベント・コンサートスケジュールやテレビ・ラジオへの出演情報を掲載。 1980年代に人気特番『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』。ムツゴロウさんこと畑正憲(はたまさのり)さんは現在どうしているのでしょう?ネットでは「死亡説」も出たようですが、調べてみるガセということが判明しました。今回は、ムツゴロウさんの嫁や生い... 映画「ホームアローン」の主演で、子役として一世を風靡した、マコーレーカルキンさん。毎年、クリスマスの時期になるとテレビで映画「ホームアローン」が放送されるので、楽しみにしている方も多いのではないでしょうか。今回は、マコーレーカルキンさんの現... 1月31日放送の『じっくり聞いタロウ』に元大王製紙の会長・東大卒エリート御曹の井川意高(いかわもとたか)さんが出演します。巨額の横領事件で逮捕され、刑務所に収監されたことでも有名。今回は、井川意高さんの出所後の現在の暮らしや... 11月10日放送の『爆報!THE フライデー【あの人は今…緊急大追跡SP】』に女優・大谷直子さんが出演されます。10年間、芸能活動を休業していた大谷直子さんですが、この間に「振り込め詐欺」の被害にあっていたといことを告白。  弁護士に頼らず... 『U.S.A』の大ヒットで15年ぶりに大ブレイクしている「DA PUMP(ダパンプ)」。その「DA PUMP」の元メンバー・YUKINARI(ゆきなり)が、『RIZAP』で5ヶ月間のダイエットに挑戦し、引き締まった体を手に入れたという。現在... 「ジュノンボーイコンテスト」でグランプリを受賞し、現在はバラエティやドラマで活躍する武田真治(たけだしんじ)さん。最近ではNHKの「筋肉体操」に出演して話題に。 しかし、ネット上では、「顔が変わった」「鼻がマイケルジャクソン化!」との声が上... ジャニーズが合コンで使う西麻布の会員制カラオケバーはどこ?【松本潤・大野智・伊野尾慧・中島裕翔】, ラグビーW杯2019【ニュージーランド対ナミビア】見逃し配信動画をお得に視聴するならココ!, 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1945年(7歳)、長野県松本市へ疎開。両親の実家がある群馬県桐生市にも半年間、疎開していた事がある。井戸から水を運ぶ途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを負傷。母・ナカが「女の子だから(腕を)残して欲しい」と医師に懇願し、切断は免れたが47針を縫い[4]、感覚も無く、動かすこともできなくなる(後に不自由ながらも動かすことができるようになる)。この時の輸血がのちに千代子が患ったC型肝炎の遠因となった。気持ちの沈んだ千代子のために母・ナカは『リンゴの唄』を聞かせるようになる。後に『この世の花』で歌手デビューを遂げた千代子だが、『この世の花』の作曲は『リンゴの唄』の作曲と同じく万城目正によるもの。, 1947年(9歳)、東京に戻る。姉の敏子は歌唱力があったが小児麻痺を患っていたために歌手にはなれなかった。大好きな姉のために自分が歌手になると決意。敏子により声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入団。左手に負担の無いアコーディオンを担当。歌唱力があったためボーカルにも起用されていた。地元の品川神社で催されたのど自慢大会には毎回姉妹で参加していた。, 1949年3月、童謡『お山のお猿』がテイチクレコードから発売される。ただし誤植(レコード会社の社員によるミスとされている)により「戸倉千代子」名義となってしまったため、「島倉千代子」のデビュー作とはならなかった[5]。, 1953年(15歳)、品川区の日本音楽高等学校へ入学。歌謡コンクールにも積極的に参加するようになる。1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約。, 1955年3月[6](16歳)、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲『この世の花』(同名の映画の主題歌)は半年後に200万枚達成、人気歌手になる(後にテレビドラマでカバーされ、1977年に同名の映画の2作目で再度カバーされる)。1955年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。, 1957年(19歳)、『東京だョおっ母さん』が150万枚のヒット。映画化もされ、自ら主演する。この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場(曲目は『逢いたいなァあの人に』。その後、1976年、1979年にも歌唱)。当時大卒サラリーマンの給料が1万円であったが、千代子は常に財布に2千円入っていた。この年の3月、島倉を殺害しようとした16歳の無職少年が逮捕される[4]。, 1958年(20歳)、港区高輪(北品川の隣町)に一戸建てを購入。同年には『からたち日記』が130万枚のヒットとなった。, 1960年(22歳)、美空ひばりとともに『つばなの小径・白い小ゆびの歌』を発表。同年、ひばりを抑えて初めて紅白の紅組トリを務める(1960年から1962年、1973年から1975年の計6回に渡り紅組トリを務める。1975年は唯一の大トリ)。, 1961年(23歳)、ファンの投げたテープが両目に当たって失明の危機に陥る[4]。このとき、品川区五反田「守屋眼科」の医師・守屋義人の助けで視力を回復。, 1962年(24歳)、何者かによって後援会事務所に爆発物が送りつけられ、負傷者が出る(草加次郎事件)[4]。, 1963年(25歳)、父・壽雄が他界。悲しみにくれる中、支えてくれた元阪神タイガースの藤本勝巳と母親の反対を押し切り結婚。結婚前に妊娠したが中絶、結婚後も二子をもうけたが中絶した[7]。後年、この三人の子を合わせて「忍」と名付け、その名を小さな地蔵に付けて肌身離さず持ち歩いた。忍の名は、島倉の墓碑にも千代子と並んで刻まれている[8]。, 1968年(30歳)、「泣き節」を売り物としていた彼女にとり異色の作品である『愛のさざなみ』が幅広い世代の間でヒット。この曲で第10回日本レコード大賞・特別賞を春日八郎と共に受賞。すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。, 1975年(37歳)、以前かかった眼科医に頼まれ実印を貸してしまう[7]。その知人だけではなく、島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々の保証人にされてしまう。島倉を保証人に借金を重ねた人々はその後行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱える。後に美空ひばりから「実印は貸すな」と注意を受けたという(ひばり自身も実印を押してしまった経験を持つため)。, 1977年(39歳)、今度は島倉に信頼され、島倉に手形の裏書をさせていた守屋義人が事業に失敗して、不渡り手形を出し蒸発。島倉は借金の連帯保証人にされ、これにより更に2億4000万円(当時判明分)の債務を負う。20億近くもの莫大な借金返済のため、写真集の発売や全国各地のキャバレー回りや地方興行などをしながら、足掛け7年程で完済した。このような活動をしている最中でも島倉の人気は全く衰えを知らず、NHK紅白歌合戦の連続出場記録は続く。, 1986年(48歳)、第37回NHK紅白歌合戦で紅白歌合戦への30年連続30回出場を達成。当時の紅白史上最多記録だった。, 1987年(49歳)、『人生いろいろ』を発表。「30回という区切りを大切にしたい」と“紅白辞退”の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップ。出場辞退表明の記者会見で若手記者から「結局、落選するのが怖かったということですか」と辛辣な質問をされ、「その通りです」と返答した[9]。『紅白50回』のインタビューで本人は「辞退は前年の時点で決めており、前回身に纏った白色の着物はその表れだった」「ここ数年紅白に出られるか出られないかで不安だった。もし落選したらショックで歌えなくなると思った。そのため、余力のあるうちに辞退しようと思った」と語った。島倉は出場辞退をこの年発売の『人生いろいろ』の作曲者で当時療養中の浜口庫之助に報告したところ、「紅白で『人生いろいろ』が聞けないのか」と返されたことを明かしている[10]。, 1988年(50歳)、『人生いろいろ』が前1987年からこの年にかけて130万枚の大ヒットを記録。当時の人気バラエティー番組「オレたちひょうきん族」での山田邦子やコロッケによる物真似をきっかけに『人生いろいろ』が若者にも受け、再びブレークする。同年の第30回日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞。100万枚記念パーティーでは、山田とコロッケが本人の目の前で、島倉の物真似による『人生いろいろ』を歌唱。これに対し島倉は、「山田邦子さんとコロッケさんのおかげで、『人生いろいろ』が若い方にも親しまれるようになり、光栄です」と二人を賞賛する。同年末の第39回NHK紅白歌合戦に2年ぶり31回目の復帰出場となる。この復帰出場に対しては「一度降りたのに」と批判の声も上がった。出演を決めた背景には当時療養中だった浜口[11]に「歌う姿を見て元気になって貰いたい」との思いがあったためである[12]。借金返済の目処がたつ。姉の敏子が目黒川で投身自殺[4][13]。, 1989年6月(51歳)、美空ひばりが52歳の若さで間質性肺炎による呼吸不全で他界。自身の後援会で愛知県に滞在中に訃報を聞いた島倉はその後のスケジュールを切り上げて目黒区青葉台のひばり邸に駆けつけ、息子の加藤和也に頼み3日間ひばりのそばに張り付いて離れなかったという。, 1993年(55歳)、初期の乳癌であることが判明。芸能人で会見を開き、自ら癌であることを発表したのは島倉が初めてだった。手術は成功する。ライブハウスなど歌謡曲の枠をはみ出して活動。, 1999年(61歳)、歌手生活45周年を迎える。45周年コンサートではタキシードで全国を廻る。ベストジーニスト賞を受賞。同年、紫綬褒章を受章した。, 2003年初頭(65歳)に、慢性肝炎の進行とストレスにより声が出づらくなる傾向に陥ったため、この頃を境に晩年は歌唱曲のキーを下げるなどした。治療と並行しつつも精力的に仕事をこなす。, 2004年(66歳)、歌手生活50周年を迎える。第55回NHK紅白歌合戦に生涯最後となった35回目の出場を果たした(当時の紅組史上最多記録)。, 2007年(69歳)、事務所のスタッフに資産を奪われ再び多額の借金を抱える[14]。同じ過ちを犯すのは自分のせいと責任を感じ、自らの誕生日に事務所を解散。しかし周りの協力により心機一転スタートすることになり、経理も全部自分でやるために簿記を勉強。同年、映画『ララ、歌は 中山晋平物語』にナレーターとして出演し、中山晋平の世界を表現した。また藤商事からパチンコ機種『CR島倉千代子の千代姫七変化』が発表され、全国のパチンコ店に導入された。, 2008年(70歳)、『人生いろいろ』が出身地である品川区の京浜急行電鉄青物横丁駅の接近メロディに採用される。このニュースを聞きつけた島倉自身が、翌2009年1月に青物横丁駅を訪れて実際に流れるメロディに耳を傾けた。後日、京浜急行電鉄に宛てて礼状を改めて送付したという[15]。, この頃、大分県を本拠地として九州各地で営業するリフォーム会社・野田建工のテレビコマーシャルに着物姿で出演していた。なお、野田建工は求人雑誌に大きなカラー広告を多く掲載しており、島倉の写真を求人情報誌で見ることができた。, 持病の慢性肝炎が進行していた中で2010年12月に肝臓癌を発症したことが判明、手術・入退院を繰り返していた[16]。肝臓癌発症はごく少数の関係者にしか打ち明けていなかった。その間、3度の肝動脈塞栓術を受けたが、2013年前半には肝硬変に至っていた。同年3月30日、75歳の誕生日にはコロムビアレコードの100周年を記念し復活したイベント「コロムビア大行進2013」に出演し、数千人の聴衆を前にトークを交えながら『人生いろいろ』など数曲を歌った[17]。同年5月から仕事をセーブするようになり、同年6月21日、宮崎県延岡市で開催したコンサートが生涯最後のステージとなった[18]。同年6月、日本テレビ「1番ソングSHOW」の取材を受けた(これが生涯最後のテレビ取材となった)。同年9月14日にブログを更新した(最後の更新)。, 同年10月中旬に一時退院、2014年のデビュー60周年に向け復帰への意欲は衰えず、死去3日前の2013年11月5日に自宅で記念曲『からたちの小径』を録音した[19]。レコーディングは当初、11月15日に行う予定だったが、島倉自身から「その日まで待てない」と関係者に連絡を入れて11月5日に急遽吹き込みが行われた[19]。同曲の作曲を担当し、レコーディングにも立ち会った南こうせつは「(島倉の具合から)1回位しか歌えないかと思ったが、3回も歌われた。奇跡の歌声だった」と語った[19]。, 11月6日、「体調が悪いので来てほしい」と自宅からスタッフに電話して中目黒の東京共済病院に再入院。入院先から島倉本人が南こうせつへ電話をかけ、感謝の意を伝えたという[19]。翌々日の2013年11月8日朝に容体が急変。午後、東京共済病院の病室にて所属事務所の女性スタッフに看取られ、眠るように息を引き取った[20][2]。死因は肝臓がんだった。満75歳没(享年76)。周囲の関係者にはあらかじめ、通夜は密葬とし、香典は断るように伝えていた。, 島倉の訃報を受けて、当時の内閣官房長官・菅義偉[21](2020年~首相)を始め、北島三郎[22]、五木ひろし[23]、細川たかし[24]、氷川きよし[25]、水前寺清子[26]、大月みやこ[27]、都はるみ[28]、八代亜紀[29]、小林幸子[30]、森昌子[31]など島倉を敬愛していた後輩の演歌歌手達、またコロッケ[32]、山田邦子[33]らものまねタレントも追悼のコメントをそれぞれ発表した。, 島倉の死去から6日後の2013年11月14日、葬儀が南青山の青山葬儀所で営まれた。会場には、『からたちの小径』の録音後に涙声で次の言葉を語る、島倉の生涯最後となる肉声テープが流された[34]。, また告別式では、島倉に憧れて演歌歌手となった石川さゆりが代表として「本当に寂しいです。もっともっと、お元気で歌っていて欲しかった。優しく、時に厳しく、叱ってくれる人が、居なくなってしまいました…」「これからも、私達後輩を、空高くから見守っていて下さい」と、涙で時折言葉を詰まらせながら弔辞を読んだ[35][36]。『からたちの小径』は四十九日にあたる12月18日にシングル発売された[37]。同曲は遺作となったが、「来年発売の記念CDボックスに入れたい」と関係者は語っていた[38]。, 同年12月31日の第64回NHK紅白歌合戦では石川の『津軽海峡・冬景色』の歌唱前に島倉の追悼コーナーが設けられた。当初、番組側は石川に島倉の持ち歌である『東京だョおっ母さん』や『人生いろいろ』の歌唱を要請していたが、石川が「島倉さんとは親しいですが、都はるみさんや五木ひろしさんなど、自分よりも仲の良かった先輩歌手がいるのに、そんな出しゃばった真似はできない」とその打診を断ったとされる[39]。, 戒名は寳婕院千代歌愛大姉。故郷・北品川の臨済宗東海寺大山墓地に生前に建てていた墓に眠る[8]。, 島倉は、地方小唄や音頭といった新民謡を数多くレコードに吹き込んでいた。それらの中には、『松井田小唄』『祇園まつり音頭』『七夕おどり』など地元の人以外にも広く親しまれ、全国的によく知られた歌もある。それぞれの地元では、大スターである島倉がレコードに吹き込んだこともあって、親しまれている場合が多い。当時の音源を祭りの際に使用し続けているところもある。, また、仙台市の『ミス仙台』(二葉あき子のカバー)や、大阪市の『小鳥が来る街』などといった、地方の愛唱歌の類もレコードに吹き込んでいる。また、民謡で『祖谷の粉ひき節』『島原の子守唄』『五木の子守唄』などをレコードに吹き込み、ヒットさせている。, 7歳の時の怪我で左手が不自由になって以来、引きこもりがちとなった島倉には友達が一人もいなかった。そんな彼女が夢中になったのが1歳年長の美空ひばりである。アルバイトをしてはひばりのコンサートに行く、追っかけとなった。, 1953年の落選を経て、1954年憧れのひばりが所属するコロムビアレコードのコンクールに合格。しかし既に大スターだったひばりにはなかなか会えなかった。, 1961年、それまではひばりが不動の1位だった雑誌『明星』のファン投票で島倉が1位となってからは、ますますひばりに会う機会が失われていく。「ひばりさんが出る番組には島倉は出られない。という空気が築かれていた」と島倉自身が語っている。, 周囲の仲間たちがひばりと交友関係を築いた後も、島倉はひばりとは歌番組などの仕事で共演はしてもプライベートでは交流することはなかった。両者とも親しかった和田アキ子は島倉に「今度、一緒にひばりさんに会おう」と誘ったが「恐れ多くて…」と遠慮していたという。, 1984年2月2日、長年憧れながらもひばりとの距離が縮められずにいた島倉に思わぬ出来事が起こる。コロムビアレコード主催で島倉のデビュー30周年記念パーティーに今まで一度も飛び入り出演をしたことがなかったひばりが島倉やコロムビアレコードの役員や関係者などに一切連絡もなく島倉に手渡す花束を持参して一人でパーティー会場へ突如やってきたのである。驚きと嬉しさで涙が止まらない島倉にひばりは「これからは人に騙されない人生を送って欲しい。私は実印は絶対離しません」と述べ会場の笑いをとっていた。, その頃、ひばりは自身を深く理解してくれる家族を相次いで亡くしており、今一番に自身を理解できるのは妹分の島倉かもしれないと考えていたという。2人には共通点が多々あったからである。同学年で若くしてスターになり、ファンに塩酸をかけられ負傷したひばりとファンが投げたテープがあたり失明の危機に陥った島倉。離婚経験、金銭トラブル、家族の死、そして歌への熱意。, 翌年の3月3日毎年極親しい女友達だけを集め美空ひばり邸で行われる「ひな祭り」に島倉は初めて参加する。その時ひばりに頼んで書いて貰ったサイン色紙には「舞う鳥も私と同じこの世にも生きてこそあれ歌ひとすじ一筋の道」という短歌が書かれており島倉の宝物となった。, 1987年夏、ひばりが病気で福岡の病院に入院した直後に島倉が「面会謝絶は重々承知の上で、ひばり姉さんに逢えなくても病室の前を一目見るだけでいいから直ぐにでも駆けつけたい。」とひばり本人やコロムビアレコード役員などの関係者に直訴したところ直ぐ様「お千代なら来てもいいわよ」とひばりが了解して即見舞いに訪れた。島倉本人は大変緊張しながら「ひばり姉さんを励ますつもり」で病室に入ったら、病室のひばりが「お千代、良く来たわね」と生来の明るさで島倉を迎え、「お千代が来てくれたから鍋焼きうどん(島倉の好物)の出前でも取って食べよう」と食欲がなかったのにも関わらず完食したそうで病人とは思えない元気さを島倉の前に見せた。そのひばりの姿に「私が励ますつもりで行ったのに、逆に私の方がひばり姉さんに励まされちゃって…… こっちの方が恐縮でした」と後にテレビのインタビューで語っていた。, 島倉が紅白出場辞退をした際、ひばりから「お千代、(辞退したことに)後悔はない? ここからが見せどころよ」とアドバイスを受けたという[40]。, 晩年、闘病生活を送っていたひばりはどんなに親交の深い芸能界の友人、親友などが見舞いに訪れても、プライベートでも実妹のように大変可愛がっていた島倉ととんねるず以外の面会は拒否していたとされる。, 2003年6月29日、フジテレビ『FNS27時間テレビ』内アニメ『ちびまる子ちゃん』(「歌は心・人生いろいろ」の巻)において、本人役で自身初の声優に挑戦。この回のストーリーはまる子の祖母・こたけからの「病に倒れた友人に一目会ってあげてほしい」という手紙を受け取り、変装をして清水にやってくるという設定だった。挿入歌として「からたち日記」(1番をアカペラ(無伴奏)で歌うシーンもある)、エンディングテーマには「人生いろいろ」が起用された。2011年、DVDとして発売されている[41]。, 島倉は八人きょうだいで姉二人が一歳、六歳で逝去している。弟二人は俳優デビューしたものの、一人は引退し、もう一人は作詞家に転身した。, 1957年(第8回)の初出場以来、1986年(第37回)まで紅白史上初の30回連続出場を達成。1987年(第38回)は一旦出場辞退したが、「人生いろいろ」で久々のヒットを記録したことを背景に、1988年(第39回)に2年ぶりに復帰出場。1994年(第45回)には「紅白歌合戦45回の歴史を象徴する歌手」として6年ぶりのカムバックを果たし、1996年(第47回)まで3年連続して出場した。2004年(第55回)に「紅白歌合戦に出場してほしい歌手」アンケートで上位歌手15組の中に入ったことから、8年ぶり通算35回目の出場で66歳の当時の紅組最年長出場となったが、これが生涯最後の出場となった。, 通算出場回数では、1973年(第24回)に17回目の出場を果たして以降[43]、白組歌手・北島三郎が1998年(第49回)で通算35回目の出場を果たし、島倉の記録を追い越すまで20年以上もの間歴代第1位の記録を保持していた[44]。さらに女性歌手では、同じく1973年(第24回)以降、2012年(第62回)に和田アキ子が36回目の出場を果たすまで、39年もの間島倉が史上最多出場記録を保持していた。, 1960年(第11回)では、それまで3年連続で大トリを務めていた美空ひばりを抑えて初めて紅組トリを務め、1962年(第13回)まで3年連続で紅組トリを担当した。その後はひばりが10年連続でトリを務めたが(島倉は中盤に固定されていた)、1973年(第24回)にひばりが落選すると再び紅組トリに返り咲き、1975年(第26回)まで3年連続で紅組トリを務めた(1975年は唯一の大トリ)。紅組において通算トリ回数6回という記録は、美空ひばり(13回)、石川さゆり(8回)、和田アキ子(7回)に次ぎ、歴代4位である。また、3年連続トリという記録も、上述したひばりの10年連続に次ぐ記録である[45]。, 多くの楽曲を発表しており(およそ2,000曲)、委託制作版や当時のアルバムにしか入っていない曲もあるため、持ち歌の数を正確に数えるのは困難である。, 1998年9月20日のカーネーションのライブ(渋谷クラブクアトロ)にゲスト出演し、同曲を歌っている。, 美空ひばり、島倉千代子、舟木一夫、都はるみ、大川栄策。片面は、コロムビア・オーケストラの「日本晴ればれ音頭」。, 体調を考慮して歌入れは自宅で行われたが、歌入れの僅か3日後に他界した為、遺作となってしまった。, 第1回から第10回までは制定なし。第12回 は発表なし。第32回から第34回までは演歌・歌謡曲、ポップス・ロックの2部門に分けて発表(ただし第32回に限り演歌・歌謡曲、ポップス、ロックの3部門に分けて発表した)。, 「私の部屋の中にスタジオができて、そこで私はできる限りの声で歌いました。自分の人生の最後に、二度と見られない風景を見せて頂きながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした。人生の最後に素晴らしい時間をありがとうございました」, 『島倉家-これが私の遺言』108-109頁。島倉千代子著、文芸社 (2005/02), 「金曜プレステージ・独占秘話!初公開!秘蔵映像!島倉千代子最期の223日~今夜明かされる壮絶人生と「からたちの小径」誕生秘話~」フジテレビ、2013年12月20日, 紅組歌手で3年以上連続でトリを務めた人物はひばり(3年連続および10年連続)と島倉(3年連続が2回)しかいない。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=島倉千代子&oldid=80086007, ディレクターとして「からたち日記」などを手がけ、その後1963年にコロムビアを離れた, 定年で職場から離れていく団塊の世代へ向けた応援歌。岩手県釜石市の根浜海岸に歌碑が設立されている。, 五枚組レコード"童謡玉手箱シリーズ"に収蔵。ナレーション有り童謡アルバム/AL-3042, *は複数回の受賞。男性は1992年から、60代以上は97年から、10代は99年から対象, 人を疑わない性格のため多くの人に「騙された」「裏切られた」と言われる島倉に対し、作詞家の, なかにしは彼女の代表曲のひとつである「愛のさざなみ」を作詞している。結婚後ミリオンから遠のき、離婚により暗いイメージがつきかけた島倉のために作ったこの異色の曲は久々のミリオンとなった。, 対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。, 前半トリとは1990年以降の紅白において、前半戦(ニュース中断まで)で両軍の締めくくりを務めたことを指す。. ※2020年8月時点での規制対象国(EU加盟国)は、下記の通りです。 ョン 〜NHK紅白歌合戦&思い出のメロディー etc.〜』ダイジェスト映像. App © Fuji News Network, Inc. All rights reserved. ※GDPR(EU一般データ保護規則)対象国から歌ネットをご利用いただくことができません。. 戦後復興という激動の時代で、歌で人々を癒し続けた一方で、“不幸のデパート”とまで言われた歌手・島倉千代子さん。この世を去ってちょうど5年となる11月8日放送の「シンソウ坂上!」(フジテレビ系)では、これまでに語られてこなかった島倉さんの75年の人生に迫った。 島倉千代子の「東京だョおっ母さん(セリフ入り)」動画視聴ページです。歌詞と動画を見ることができます。(歌いだし)おっ母さんねえおっ母さん 歌ネットは無料の歌詞検索サービスです。 島倉千代子の「襟裳岬」動画視聴ページです。歌詞と動画を見ることができます。(歌いだし)風はひゅるひゅる波は 歌ネットは無料の歌詞検索サービスです。 戦後復興という激動の時代で、歌で人々を癒し続けた一方で、“不幸のデパート”とまで言われた歌手・島倉千代子さん。この世を去ってちょうど5年となる11月8日放送の「シンソウ坂上!」(フジテレビ系)では、これまでに語られてこなかった島倉さんの75年の人生に迫った。 島倉千代子の「ほんきかしら」動画視聴ページです。歌詞と動画を見ることができます。(歌いだし)ほんきかしら好きさ大好きさ 歌ネットは無料の歌詞検索サービスです。 YouTube Mail. 戦後復興という激動の時代で、歌で人々を癒し続けた一方で、“不幸のデパート”とまで言われた歌手・島倉千代子さん。この世を去ってちょうど5年となる11月8日放送の「シンソウ坂上!」(フジテレビ系)では、これまでに語られてこなかった島倉さんの75年の人生に迫った。, 1955年(昭和30年)。戦争が終わって10年が経ち、成長期を迎えた日本。一般の家庭に、テレビや洗濯機、冷蔵庫という“三種の神器”が普及し始め、少しずつ生活が豊かになり出したこの年に、大スターだった一つ上の歌手・美空ひばりさんに憧れて、16歳でデビューしたのが島倉さんだ。デビュー曲『この世の花』は、200万枚の大ヒットで華々しいスタートを切った。伸びのある高音と細かく震える歌い方は“なき節”と呼ばれ、島倉さんの代名詞と言われた。さらに、特徴的だったのが歌に添えられる“語り”。戦争の傷跡を引きずりながらも、ひたむきに復興を目指す日本人の心を鷲づかみにした。明るく歌うひばりさんと、儚く歌う島倉さん。この二人の存在が、戦後の歌謡界を二分した。, 1963年(昭和38年)、東京五輪を翌年に控え、街中が建設ラッシュに沸く中、人気絶頂の島倉さんは25歳で有名なプロスポーツ選手と結婚した。このスター同士の結婚は、当時の世間を賑わせた。結婚を機に歌手活動をセーブし、夫に合わせて大阪へ移り住み、主婦業中心の生活を送ることになった島倉さん。しかし、16歳から芸能界で活躍する大スターゆえに、結婚生活では苦労していた。さらにこの結婚が、後の島倉さんの人生を狂わせることとなった。慣れないながらも主婦として頑張っていた島倉さんは待望の妊娠をするが、引退後に夫が始めたクラブ経営が失敗し、借金6000万円を島倉さんが背負うことに。大好きな歌を辞めてまで母になろうとした島倉さんだが、借金を返済するために歌手活動を再開。そして、働くために『中絶』という苦渋の決断をする。結局、結婚5年、30歳で離婚。島倉さんは、睡眠薬による自殺未遂まで起こし、残ったのは莫大な借金だけというまさにドン底だった。, ただ、島倉さんを襲う“不幸”はこれだけではなかった。離婚後、新たに付き合い出した医師の男性に、不動産事業の連帯保証人になってほしいと相談を受け、世間をあまり知らない島倉さんは、相手に実印を渡してしまった。結局、男性は4億円もの借金を残して夜逃げをし、連帯保証人となっていた島倉さんがすべてを背負うこととなった。しかし、島倉さんの態度は意外なものだったという。30年来の元付き人・綿引あつ子さんは「彼のことを悪く言ったことは全然聞いたことなかったです。もう前進のみ。歌って私が返していくという気持ちですね」と明かした。その思いとは裏腹に、借金は利子などを合わせて16億円まで膨らんだ。島倉さんは、返済のため知人を頼り、昼はコンサートや歌の収録、夜はキャバレーやスナックを回ったという。, 10歳の頃から島倉さんを母親のように慕っていた小林幸子さんは、「当時、本人から聞いた話では、新宿コマ劇場でずっと定期的にやっていたんですが、『サチね、新宿コマで歌っているときが一番ホッとするの。借金取りも舞台に来ないし』って。『だから、一番お客様に守られているから、それがすっごい楽なの』と話していました」と語った。そんな借金返済の真っただ中に、歌手生活30周年パーティを開催。そこに現れたのが、島倉さんがあこがれ続けたひばりさんだった。この時にひばりさんが贈った「もう決して人に騙されることのない人生を送って頂きたい。実印は絶対に離しません!」というお祝いの言葉は当時、世間の大きな話題となった。そんな島倉さんの人生を知った作詞家・中山大三郎さんと一緒に作り、生まれたのが1987年(昭和62年)、49歳の時に発表した名曲『人生いろいろ』。時代はバブル景気真っただ中で、この歌は130万枚の大ヒットを記録。そして、借金を返し続けること10年以上…ついに16億円とも言われた借金を完済した。, この名曲の誕生した背景に番組MCの坂上忍は「『人生いろいろ』がノンフィクションの歌だって知らなかったので、それを知ってあの歌を聞いたら聞こえ方が全然違います」と驚きを隠せないでいた。また、小林さんも「でも(島倉さんは)明るく歌ってるでしょ?すごいと思います」と感動していた。, そんな島倉さんに更なる悲劇が襲った。1993年(平成5年)、島倉さんは54歳で乳がんを発症した。がんを告白した当時の会見で島倉さんは「私の中で“がん”という言葉は、イコール死に繋がるもの」と明かし、これまでの人生を振り返り、「いろいろありすぎます。やっといろんなことが終わって、やっと心静かになった時だったので、がんにはなりたくなかったですね。私にはありがたいことに歌がありまして、歌が好きだから、歌いたいから元気になります」と述べ、最後にはこらえていた涙があふれた。その後、手術を行い、毎日続く放射線治療にも必死で耐え続けた島倉さんは、1か月に及ぶ、辛い放射線治療を終え、乳がんを克服した。そして、退院から約24日という早さでコンサートに復帰した。さらに、活動の幅を広げて、バラエティでも活躍し、持ち前の天真爛漫さがうけて人気者となった。, だが、島倉さんを再び病が襲った。2010年ごろに肝臓がんを発症し、3度の手術を受けるなど必死に闘っていたという。闘病中の島倉さんだったが、2013年(平成25年)、75歳の誕生日には、レコード会社の人気歌手が一堂に会した記念コンサートに出演し、出演者たちから祝われ、元気そうな姿を見せていた。乳がんの時とは違って、病状について沈黙を貫いたのは、2014年に歌手活動60周年コンサートを予定していたからだった。それが島倉さんの目標であり、周囲に病気が知られると、治療を勧められ、舞台に立てなくなると恐れたため、誰にも言うまいと心に決めていたという。そんな島倉さんは、かねてからのファンだった南こうせつさんに、歌手生活60周年で歌いたい新曲の依頼をする。, 島倉さんの楽曲『からたち日記』の中で、「このまま別れてもいいの?」と語る島倉さんにインスピレーションを受けたこうせつさん。「またかわいい声で。こんなかわいい人がいるんだったら、そのまま自分の作品にしようと思いました」と明かした。コンサート中にこうせつさんの元を訪ねた車いす姿の島倉さんの姿を見て、こうせつさんは予定よりも早く新曲を作り上げる。, そして、完成した新曲『からたちの小径』。レコーディング日が迫る中、その半月前に島倉さんから、こうせつさんの元に電話があったという。こうせつさんは「『もうすぐレコーディングですね、頑張りましょう』という話かと思ったら、『その日を待てない』と。声だけでも録っておきたいって。これは尋常じゃないと思いまして、島倉さんの自宅に録音機材を運ぶ段取りをつけました」と明かした。島倉さんの体力を考え、10日早めたレコーディング。こうせつさんは、島倉さんを気遣い、近くで待機していた。こうせつさんは、島倉さんがスリーコーラス歌えるか、いても立ってもいられなかったというが、島倉さんはフルコーラスを3回歌い切り、その歌声は闘病中とは思えないほど、気力あふれる声だったという。「スタッフからすぐに電話があって、歌えたって。本当に安心しました。『声だけでも残しておきたい』と島倉さんが言った。彼女は本当に歌手のプライドを持ってやり遂げたんです。完璧ですね、あり得ない、奇跡かな…」と振り返った。レコーディングを終え、島倉さんから直接お礼の電話があったと明かす。「夕方本人が直接話したいということで電話に出ました。で、泣かれたんですね。それで『皆さんに感謝します』って、だから『待ってくださいって。もうちょっとしたら本式のスタジオ押さえてます。それまでに体調を整えて、今度さらに自由に歌ってください』と言ったんですが、いま思い出すとそれに対して島倉さんは答えてなかった。何かを感じてたのかな。そしたらその日の夜に昏睡状態に陥って、その3日後に亡くなったんです…」2013年11月8日。島倉さんは75年の人生に幕を下ろした。, 島倉さんの葬儀には交流のあった歌手など3000人が集まり、死の3日前に収録された最後の歌と最後のレコーディングで収録された肉声が披露された。意識を失う数時間前に命の限りを尽くして吹き込んだ新曲に、こうせつさんは「(島倉さんは)いろいろなことを体験したんです。でも、あのコロコロしたかわいい声と微笑みは変わらないんです。普通、人間がああいう体験をするとまず顔が変わります。それから声が出なくなるんです。でも、最後の最後まであれはあり得ない。奇跡です。もう泣けてきますよ」と目を潤ませた。, 小林さんは母と慕う島倉さんからもらった、一生大事にしたいものがあるという。それは島倉さんとペアの指輪。飾りの部分がひっくり返り、その裏には「忍」と書かれている。「人生は、何があっても忍びなさい。何にも言わずに忍びなさい。どんなことがあっても忍耐。何しろ、余計なことを言わずに、忍びなさいという意味だからね」と、島倉さんが指輪に込めた思いを明かした小林さん。激動の時代に人々を歌で癒し続けた島倉さんの波乱の人生。借金やがん…人生の波にもまれながらも、歌を愛し、歌に生かされた人生を全うした。, Facebook 島倉千代子の死去はいつ? 島倉千代子さんは、2013年11月8日に死去されています。 死因は、肝臓がんでした。 肝臓がんになった原因は、島倉千代子さんがc型肝炎だったからと言われています。