インドネシア国軍(インドネシアこくぐん、英語: Indonesian National Armed Forces, インドネシア語: Tentara Nasional Indonesia, 略称:TNI)は、インドネシアの軍隊。陸軍(TNI-AD)・海軍(TNI-AL:海兵隊を含む)・空軍(TNI-AU)の3軍種からなり、432,129名の人員を有している。, かつてはインドネシア共和国国軍(インドネシアきょうわこくこくぐん、インドネシア語: Angkatan Bersenjata Republik Indonesia 略称:ABRI "Republic of Indonesia Armed Forces")と称していた。, インドネシアは、世界最多数の島嶼に中、印、米に次ぐ世界第4位の人口が散在して生活しており、国境線の防衛は困難である。また、インドネシアにおいては、その民族・宗教などの多様性や、人口・経済力・政治力の集中するジャワ島・ジャワ人への反発もあって、いくつかの紛争を抱えていることから、治安維持も国軍の重大な任務である。また、スハルト政権下でインドネシア軍は、国家を防衛するとともに、これを監督するものとして位置づけられていた。実際、9月30日事件においては、国軍とインドネシア共産党が対立する構図が背景となっている。スハルト政権の多くの閣僚が軍人としての経歴を有していて、このことは、社会全体に軍の影響力をおよぼすこととなり、多様な民族・宗教を有する同国の統一に益することとなった。しかし、この方針は同時に、政府の軍に対する統制を弱体化させることとなった。インドネシア軍は、9月30日事件直後のインドネシア共産党の物理的解体など、複数の重大な人権侵害事案を主導または関与したとして、国際的な非難を受けている。, インドネシア国軍は、インドネシア独立戦争の最中にゲリラ戦部隊として誕生した。1945年8月17日のオランダによる植民地支配からのインドネシアの独立直後の同22日、人民治安団(Badan Keamanan Rakyat)が政府布告によって結成され、さらに10月5日には、より軍事組織としての性格を強めた人民治安軍(Tentara Keamanan Rakyat)が結成されている。これらは、第二次世界大戦下の日本の占領下で現地軍として編成されていた郷土防衛義勇軍や蘭印軍などの将兵を糾合し、急速に体制を整頓していった。また、その過程において多数の旧日本軍将兵が国軍の創設を援助していたことが知られている。, 2000年1月までは警察も国軍の管轄下に置かれていたが、民主化に伴う改革の一環として同月以降は国軍から分離され、国家警察本部として再編された。, 現在のインドネシアは志願制度である[1]。兵器体系は、かつてはアメリカに準じていたが、東ティモール問題のために禁輸措置を受けてからは、東側の兵器も導入されている。なお、禁輸措置は2005年に解除された。, インドネシア陸軍は328,517名の常備軍と400,000名の予備役を有しており、インドネシア国軍における最大勢力である。, 基本的には軽装備の歩兵部隊であり、多彩な小火器とともに、軽戦車や榴弾砲・多連装ロケット砲などといった少数の重装備によって武装している。, 陸軍は、12の軍管区担当司令部(Kodam)と複数の機能別軍によって構成されている。それぞれの軍管区司令部は、複数の歩兵大隊と、場合により1個の騎兵大隊、また、砲兵および工兵の分遣隊を有しており、この他に、地域の保安を担当する部隊と訓練部隊がある。現在の陸軍の基本戦術単位は大隊で、作戦単位としての師団制は採用されていない。また、機能別軍としては、特殊作戦軍(Kopassus)と戦略予備軍(Kostrad)・航空作戦軍の3つがある。, 小火器としては国営企業PT Pindadが製造したPindad SS1自動小銃(FN FNCのコピー)を主力小銃として使用している。PT Pindad社製品では他にもPindad P1拳銃・Pindad SM-2およびPindad SM-3機関銃・Pindad SPR狙撃銃を使用している。外国製小火器ではSIG SAUER P226・H&K MP5・M16・ステアーAUG・H&K G36・AK-47を特殊部隊が使用する。, インドネシアは、領土に近接する脅威がなく、また、島嶼国家という特性にもかかわらず洋上・航空輸送力が貧弱であるため、従来は主力戦車を保有していなかった。従って、陸軍の機甲火力の主眼は軽戦車に置かれており、AMX-13・スコーピオン・PT-76を合計で200両前後保有している。2011年にはAMX-13の近代化改修とともに、韓国の斗山社とインドネシアが共同で、斗山社のブラックフォックス装輪装甲車にCSE-90砲塔(コッカリルMk.3 90mm低圧砲)を搭載した火力支援車を開発し、調達する計画が公表された[2]ほか、同年11月にはドイツ製のレオパルト2A6主力戦車100両の導入計画が公表された[3]。, また、遠戦火力としては、アメリカ製のM101 105mm榴弾砲やロシア製のBM-14 ロケット砲などといった古典的ベストセラーのほか、新型のシンガポール製FH-88 155mm榴弾砲・FH-2000 155mm榴弾砲やチェコスロバキア製RM-70 ロケット砲なども導入している。, また、陸軍は航空作戦軍の指揮下に小規模な航空隊を保有している。保有機は、Mi-35 ハインド攻撃ヘリコプター×8機・MBB Bo 105軽汎用ヘリコプター×17機・ベル 412汎用ヘリコプター×28機・Mi-17 ヒップH輸送ヘリコプター×16機などである。, 世界最大の群島国家であるインドネシアにおいて、海軍は、国家防衛にあたって極めて重要な役割を担っている。独立直後に創設され、1960年代初期にはソ連から大量の艦艇を入手したが、1965年以降の関係冷却を反映し、ソ連から直接導入した艦艇は現在ほとんど残っていない。, 現在のインドネシア海軍は、37,000名の人員と272隻の艦艇を有している。従来は、比較的旧式かつ小型の艦艇が主力となっており、量的にも不足であったが、1990年代初頭にドイツから旧人民海軍(東ドイツ海軍)の艦艇(パルヒム型コルベット16隻やホイエルスヴェルダ級中型揚陸艦(ドイツ語版)14隻、コンドール級掃海艇(ドイツ語版)9隻)を一括取得して戦力を大きく向上させた。また、1990年代後半には世界的に人気の高いドイツ製の209型潜水艦をチャクラ級潜水艦として2隻を調達して潜水艦戦力を獲得し、21世紀に入ってからはオランダ製の先進的なシグマ型コルベットを取得、大韓民国(大宇造船海洋)に1400トン級潜水艦を4隻発注し、2018年から受領を始める[4]など潜水艦戦力の強化計画を進めている。また、インドネシア海軍は小規模な航空隊と海兵隊を保有している。, インドネシア海軍航空隊は小型の対潜哨戒機と戦術輸送機・練習機を保有しているが、長距離の対潜哨戒機は空軍の所管となっている。なお、現在、インドネシア海軍に艦載機を運用可能な艦艇は存在しない。, インドネシア海兵隊は3個旅団編制・13,000人体制となっており、上陸戦部隊・緊急展開部隊としての任を負っている。基本的には軽歩兵部隊だが、LG1 105mm榴弾砲やBMP-3F歩兵戦闘車など少数の重装備も保有している。また、特殊部隊として海軍戦闘水泳隊員部隊(Kesatuan Gurita)・海軍特殊部隊(KOPASKA)・海上テロ対策部隊(Denjaka)などを保有する。, インドネシア海軍は2017年6月19日、スールー海でテロリストなどを警戒するマレーシア、フィリピンとの合同警備司令センターをタラカン市に設置し、海空からのパトロールを始めた[5]。, インドネシア空軍は27,850名の人員と346機の航空機を有している。保有機としては、ロシア製のSu-30 フランカーF1・アメリカ製のF-16 ファイティングファルコンなど少数だが先進的な戦闘爆撃機とともに、国内で治安作戦を支援するためのCOIN機も有している。, 空軍は1946年に創設され、これはタイ空軍に続いて東南アジアで2番目に古い空軍であることを意味する。当初、空軍は日本軍航空隊が使用していた機体を運用していたが、予備部品などの欠乏により、これは長くは続かなかった。その後、アメリカからの供与機体、続いてソ連機の導入も進められ、MiG-21 フィッシュベッドの運用も行われたが、9月30日事件の後のソ連との関係悪化を反映して、ソ連機は急速に運用不能に陥った。その後、アメリカから供与されたF-5 タイガーII戦闘機やA-4 スカイホーク攻撃機を経て、1980年代後半にはF-16戦闘爆撃機10機を導入した。それに続いて計画されたロシア製のSu-30戦闘爆撃機の導入計画はアジア通貨危機によって一時は中断されたものの、2006年より再度発注が行われ、制空戦闘機としてのSu-27 フランカーとともに計10機が2011年に導入された[6]。また、アメリカの武器禁輸によってF-16の維持は一時期困難に直面していたが、現在は支援が再開されており、F-16C/Dの追加導入も検討されている。24機の供与も発表された。また、中国製の無人攻撃機である翼竜と彩虹4を導入している[7][8]。, 一方、航空輸送戦力の主力はC-130 ハーキュリーズとC-212であり、これに、スペインと共同で開発したCN-235が加えられつつある。また、長距離の海洋監視機も空軍の所管であり、CN-235とボーイング737の海洋監視型が導入されている。なお、ボーイング737にはVIP輸送型もあるほか、C-130の一部は空中給油機としての使用が可能である。, 2015年3月にはオーストラリア空軍(RAAF)から4機の大型輸送機C-130H ハーキュリーズを譲渡され、オーストラリアとの友好関係を深めている。, 空軍特殊部隊(PASKAHAS)を保有し、PASKAHAS内に航空機ハイジャック対応機動部隊(ATBARA)がある。, 「その他」は国家の承認を得る国が少ない、または無い国であり、国際連合非加盟。国家承認を得た国連非加盟の国と地域の一覧・独立主張のある地域一覧も参照。 8月15日、日本の終戦記念日の2日後8月17日はインドネシアの独立記念日です。日本も大きくかかわっており、ぼくもですがインドネシアに住む日本人にとって何かと考えさせられる時期じゃないでしょうか。 今回はインドネシアの独立と日本の独立支援にフォーカスしてしてみようと思いま … インドネシア軍は、9月30日事件直後のインドネシア共産党の物理的解体など、複数の重大な人権侵害事案を主導または関与したとして、国際的な非難を受けている。 インドネシア国軍は、インドネシア独立戦争の最中にゲリラ戦部隊として誕生した。 インドネシアの歴史について、まずは概要だけご紹介しますね。 同国には、大まかに分けても70もの民族があるといわれていて、長い間、統一国家というものがありませんでした。 7世紀ごろから小さな国が複数できていましたが、全域が一つにまとまったのは第二次世界大戦以降のことです。 じゃあその間はどうなっていたか? というと、他の地域同様、ヨーロッパの植民地になっていました。 中でも、インドネシアを長く統治し … インドネシア独立戦争に身を投じた日本のサムライ達。 大東亜戦争の終結後、インドネシ アの再占領を試みる欧米の植民地軍との戦いに身を投じた日本軍の兵士達は、最前線で戦 闘を指揮し、参加2000名中、1000名が戦死するという勇戦を見せた。 1 ヨーロッパにも分類され得る。, TNI AD Akan Beli 100 Tank Leopard & 8 Heli Apache Baru, http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM19H9M_Z10C17A6FF1000/, Indonesia showcases CH-4 UAVs at military parade, Indonesia acquires four Wing Loong I UAVs from China, Official Website of Polri (Indonesian Police), Official Website of the Department of Defense, Unofficial Site Of Indonesian Armed Forces, Unofficial Site Of Indonesian Special Forces, "Guerilla Warfare and the Indonesian Strategic Psyche" Small Wars Journal article by Emmet McElhatton, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=インドネシア国軍&oldid=79252061. Center of Military History, United States Army. インドネシア独立戦争は日本が敗戦した直後から始まり、イギリス軍も巻き込んで全土で80万人以上の犠牲者が出た。そこにはもちろん植民地だったインドネシアと宗主国だったオランダの民間人双方も傷 … インドネシア独立戦争~昭和20年8月17日-24年12月27日 戦死後も戦った日本の陸軍パイロットたち 昭和20年8月15日以降、 祖国に戻らず、インドネシア解放戦線に加わった日本兵は 数千人に上ったとされ、現地に骨を埋めた。 激しい独立戦争を戦い、1949年のハーグ協定でインドネシア連邦として独立。 翌1950年に全土がインドネシア共和国に統合された。 1945年8月から1950年8月までの5年間にわたるインドネシア共和国独立の歩みは複雑であるが、次のようにまとめることができる。 日本の敗戦から2日後の1945年 8月17日、スカルノやハッタら民族主義者はインドネシアの独立を宣言し、インドネシア独立戦争へと突入していった。この独立戦争には3,000人以上の旧日本軍兵士が参加しインドネシア独立に協力した。 この組織が独立戦争を担った。 加瀬俊一氏の子息で、外交評論家の加瀬英明氏は、インドネシア独立戦争に参加した残留日本兵を描く映画『ムルデカ 17805』の製作委員会の代表になった。「ムルデカ」とはインドネシア語で独立という意味だ。 サムライ、バリに殉ず――インドネシア独立戦争の英雄になった旧日本兵の記録作者:坂野 徳隆発売日: 2008/02/29メディア: 単行本 ・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 日本陸軍は、良い事もしていた。 今日11月10日はインドネシアの「英雄の日」(Hari Pahlawan)。インドネシアが独立戦争を本格的に始めた日とされています。第二次大戦の敗戦で日本がインドネシアから撤退すると、今度はオランダとイギリスがスラバヤに再上陸し、インドネシ インドネシアにおける日本軍政の功罪 芳 賀 美 智 雄 【要約】蘭印(現在のインドネシア)における日本(陸海軍)による3 年半の占領地行政 (軍政)に対する評価は、「変化」を誘発した「触媒」、「暗黒の日本支配」、「独立に貢献」 サムライ、バリに殉ず――インドネシア独立戦争の英雄になった旧日本兵の記録作者:坂野 徳隆発売日: 2008/02/29メディア: 単行本 ・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 日本陸軍は、良い事もしていた。 インドネシア人の歴史認識を知りたかったら、インドネシアの歴史教科書を読むことがいい。日本とインドネシアの関係についても書いてある。1942年に、日本軍がオランダを降伏させてインドネシアを占領した。全体的にみたら日本は悪者になっている。 蘭印作戦(らんいんさくせん)は、太平洋戦争開戦時の南方作戦における「H作戦」のこと[2]。陸海軍中央協定で「蘭領印度作戦」を「H作戦」と定めた[3]。, オランダ政府が東インドを直接支配することになったのは1798年であった[4]。蘭印は総面積190万平方キロ、総人口6,000万余であった[5]。ジャワ島には人口の3分の2が集中し、オランダの総督府は同島のバタビア(現在のジャカルタ)に置かれていた[6]。蘭印の石油の1939年年産量800万トンは当時の日本の年需要量500万トンを上回っていた。他に錫(世界第三位)、ボーキサイト、ゴム(世界第二位)などの物資も産出していた[7]。ドイツの攻勢を受けたオランダは撃破され(オランダにおける戦い (1940年))、1940年5月にウィルヘルミナ女王とオランダ政府はロンドンに逃れていた[8]。, 日本軍の南方作戦の主な目的は、蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)の石油資源の獲得にあった。南方作戦の基本構想は、イギリス領マレーとアメリカ領フィリピンを迅速に奪取し、それらを踏み台として蘭印を攻略し、資源を確保すると共にスンダ列島に防衛線を形成するというものであった[9]。, 日本政府はできれば蘭印への無血進駐を実現したいと考え、1941年12月8日の大東亜戦争宣戦の詔書でもオランダを交戦国から除いていたが、オランダ政府は12月10日に日本政府に対して「日本がオランダと密接不可分の関係にある米英両国に対し戦端を開いたので、日蘭間に戦争状態が存在するに至った」と通告した。(これは、現地のオランダ領東インド政庁が独断で行ったもので、当時ロンドンに亡命していた本国政府がそれを追認したものと言われている。)それでも日本政府は、開戦以降のマレー半島や香港での有利な戦況を背景として、オランダ政府に対してスイス経由で工作を行ったが、オランダ政府は進駐を拒絶した[10]。1942年1月11日、日本軍はオランダ領のタラカンとメナドへの進攻を開始し、翌12日、日本政府は「日蘭間に戦争状態が存在するに至った」旨の声明を発した。, ミンダナオ島南部のダバオは蘭印作戦の前進基地となりうる地勢を有していた。また、主にマニラアサの栽培に関係する在留日本人約2万人が居住し、早期にこれを保護する必要があった。開戦劈頭、第16軍の坂口支隊は、フィリピン作戦を担当する第14軍指揮下の三浦支隊(第16師団歩兵第33連隊の一部)と共同でダバオを攻略することになった。両支隊は1941年12月20日にダバオに上陸した。三浦支隊が先行して上陸したが、海軍機の誤爆を受けて約50名の戦死者を出したため、坂口支隊主力の追加投入を余儀なくされた。両支隊は同日中に在留日本人を救出して飛行場を占領し、25日には坂口支隊の一部をもってホロ島を攻略した。坂口支隊の損害は両作戦を合わせて戦死22名であった。, 日本は南方作戦陸海軍中央協定で蘭領印度作戦の作戦名称を「H作戦」と定めた[11]。また、「蘭領印度に対する作戦目的は、蘭領印度に於ける敵を撃破して其の根拠を攻略し、併せて軍事及資源の要域を占領確保するに在り。」と定めた[12]。, 日本軍は蘭印攻略を担当する部隊として第16軍を編成し、軍司令官に今村均中将を任じた。蘭印作戦には多くの困難が伴うと予想された。第一に、マレー作戦、フィリピン作戦、香港作戦を経た後に実施されるため、奇襲ができず、また参加する部隊には再使用される部隊が多かった。第二に、長途の渡洋作戦であるため制海権・制空権の確保が必須であり、島々を順次攻略して航空基地を進出させていくことが作戦遂行上の要点であった。第三に、油田の設備を連合軍によって破壊される前に確保するという特別な任務が伴っていた。, ダバオの戦いに先立つ12月19日、南方軍はジャワ島上陸の日程を開戦時の計画から1か月繰り上げる方針を固めていた。これは、マレー沖海戦でイギリス軍の2隻の戦艦が撃沈され、地上部隊も快進撃を続けるなど、主にマレー方面において戦況が極めて有利に進展していたためである。1942年1月11日、オランダ領タラカンとメナドへの進攻をもって蘭印作戦が開始された。, 1月11日未明、坂口支隊と呉第2特別陸戦隊(呉二特)はボルネオ島北部の油田地帯タラカン島に上陸した。タラカンは蘭印軍1,400名が守備していたが13日に降伏した。しかし沿岸砲による砲撃で日本軍の掃海艇2隻が撃沈され、海軍は戦死156名を出した。坂口支隊の戦死は7名にとどまった。, 同じく11日、海軍単独によるセレベス島メナドへの進攻が行われた。(メナドの戦い(英語版))佐世保連合特別陸戦隊(佐連特)直率部隊及び佐世保第1特別陸戦隊(佐一特)(兵力は合計で1,800名)がメナドの西岸に、佐世保第2特別陸戦隊(佐二特)(兵力1,400名)が東岸に上陸し、海軍空挺部隊の横須賀第1特別陸戦隊(横一特、司令官:堀内豊秋中佐)の落下傘兵334名がランゴアン飛行場へ空挺降下した。, これは日本軍としては史上最初の空挺作戦であったが、陸軍に配慮して報道発表は留め置かれた。日本軍の損害はほとんどなかった。, 坂口支隊は1月21日にタラカンを出発して24日未明にバリクパパンへ上陸した。主力は無事に上陸したものの、アメリカ海軍の駆逐艦4隻による急襲を受け、輸送船2隻が沈没し39名の戦死者を出した(バリクパパン沖海戦)。25日までに坂口支隊はバリクパパン一帯の占領を完了した。陸上における戦死は8名であった。, 並行して、海軍は24日セレベス島ケンダリーに上陸しこれを占領した。参加部隊は空挺部隊を除いてメナド攻略に参加した部隊とほぼ同一であった。, 坂口支隊はバリクパパン沖海戦で輸送船を喪失したため、次の目標であるバンジェルマシンへは陸路移動することとなった。バンジェルマシンまでの移動距離は400キロになると見積もられ、うち100キロはジャングル地帯であった。坂口支隊は1月30日にバリクパパンを出発、マラリアや蛭に悩まされながらジャングル地帯を切り開き、2月10日に先頭部隊がバンジェルマシンの飛行場を占領した。損害はマラリアによる戦病死9名であった。, アンボンはオランダが1599年に基地を建設して以来のモルッカ諸島の中心地であり、天然の良港を中心として要塞と航空基地が構築されていた。連合軍の守備兵力は3,000名(オーストラリア軍1,200名、蘭印軍400名、現地軍1,400名)であった。アンボンの攻略に任じられたのは第38師団歩兵第228連隊を基幹とする東方支隊(支隊長:第38歩兵団長伊東武夫少将、兵力5,300名)と呉第1特別陸戦隊(呉一特、兵力750名)であった。第38師団は香港攻略戦を完遂した後、1月12日に香港を出発し蘭印作戦に参加していた。, 1月24日、ハワイ空襲から帰投した第2航空戦隊の空母蒼龍と飛龍の艦載機がアンボンを空襲した。同地には連合軍の艦艇と航空機は認められなかった。31日未明、東方支隊主力はアンボン東側に、呉一特と第10中隊は北側に上陸した。第10中隊の中隊長は香港攻略戦で名を馳せた若林東一中尉であった。東方支隊主力は31日夕刻にアンボン市内に突入し、蘭印軍司令官カーピス中佐以下800名の守備隊は翌2月1日未明に投降した。, 呉一特と若林中隊は郊外のラハ飛行場へ向かった。飛行場正面での連合軍の抵抗は激しく、呉一特は集中射撃を受けて身動きできない状態となった。さらに、アンボン占領後同地に設置予定の海軍第24特別根拠地隊首席参謀予定者だった家木幸之輔中佐も迫撃砲弾を受けて戦死した。局面打開のため、若林中隊が飛行場側面の山地を迂回して背後に出る作戦を取ることになった。突入予定時刻の3日未明、呉一特は若林中隊を待たずに突入を敢行、若林中隊も予定より遅れて6時に戦場に到着した。6時30分、飛行場守備隊は降伏した[13]。同日、アンボン市郊外で抵抗を続けていたオーストラリア軍も降伏した。東方支隊の損害は戦死55名、戦傷135名、呉一特は戦死40名、重傷50名を出した。戦果は遺棄死体340、捕虜2,182名であった。, スマトラ島のパレンバンは蘭印最大かつ東南アジア有数の大油田地帯であり、ロイヤル・ダッチ・シェルが操業する製油所とともに太平洋戦争における日本軍の最重要攻略目標であった。パレンバンはムシ川の河口からおよそ100キロの内陸に位置するため、陸軍の大発等上陸用舟艇による攻撃では川を遡上している間に油田設備を破壊されるおそれがあり、これを避ける為にはまず空挺攻撃によってこれを奇襲占領し、次いで地上部隊をもって確保する作戦が望ましいと考えられた。こうして第1挺進団(団長:久米精一大佐)が空挺降下し第38師団主力(歩兵第229連隊基幹、兵力 12,360名)が支援する陸軍初の空挺作戦が立案された。但し、第1挺進団は挺進第1、第2連隊を有していたものの、挺進第1連隊は1月3日に乗船「明光丸」が積載品の自然発火を起こして沈没し、人員は護衛の駆逐艦に救助されたが兵器資材の全てを失っていた。この為空挺降下は挺進第2連隊の329名のみで実施されることになった。, 2月14日、降下部隊第1梯団の挺進兵らは、挺進飛行戦隊の一〇〇式輸送機やロ式輸送機に搭乗しマレー半島を飛び立ち、直掩機の「加藤隼戦闘隊」こと飛行第64戦隊と飛行第59戦隊の一式戦闘機「隼」等と共にパレンバンに向かった。陥落直前のシンガポールから立ち上る黒煙がはるか南までたなびき視界は不良であった。11時30分、降下部隊はパレンバンの市街地北方10キロにある飛行場の東西両側に落下傘降下、同時に久米大佐を載せた団長機が湿地帯に強行着陸し、これは完全な奇襲作戦となった。, これより前、ハドソンやブレニムからなる連合軍の飛行部隊はスマトラ島上陸に向かう第38師団の輸送船団の攻撃に出払っており、これら爆撃機の掩護を終えてパレンバン飛行場に帰還してきた15機のハリケーンは降下前の輸送機群に接近した。しかしながら飛行部隊も日本軍の空挺作戦発動に全く気づかず、無線交信が上手く使えず断雲で視界が悪い為編隊がバラバラになり、またロ式輸送機を連合軍のハドソンと誤認(ともにL-14 スーパーエレクトラのライセンス生産型および派生型)していたことから迎撃は後手に回った。不意を突かれた飛行場からは守備隊の高射砲が火を噴き、ハリケーンと第64戦隊の一式戦「隼」との間に空中戦が発生、ハリケーンはマクナマラ少尉機とマッカロック少尉機の2機が撃墜され、また2機が燃料切れで不時着し残りの機は敗走したが一式戦「隼」に損害は無かった(撃墜2機のうち、1機は戦隊長加藤建夫少佐の戦果とされる)[14]。, 降下部隊は逐次集結しつつ飛行場へ殺到したものの、飛行第98戦隊の九七式重爆撃機から別投下した火器・弾薬が入手できず、携行した拳銃と手榴弾のみで戦闘せざるを得ない挺進兵も多かった。市街地からは連合軍の装甲車部隊約500名が到着し激戦となったが、降下部隊は21時までに飛行場を確保した。, 翌15日午後、第2梯団がパレンバン市街地南側の湿地に降下し、第1梯団と協力してパレンバン市街に突入、同市を占領した。戦果としては石油25万トン、英米機若干とその他の兵器資材を鹵獲し、放火により油田設備の一部に火災が発生したものの大規模破壊は避けられた。死傷者は、降下人員329名中、戦死39名、戦傷入院37名、戦傷在隊11名であった。第38師団主力も14日にバンカ島に到着、15日に先遣隊がパレンバンに到着した。師団主力は18日にパレンバンに到着、周辺地域を確保し空挺作戦の目的を完全に達成した。, なお、日本内地においては「強力なる帝国陸軍落下傘部隊は…」で始まる2月15日午後5時10分の大本営発表第192号にて、挺進連隊の活躍とパレンバン空挺作戦の成功を発表、陸軍落下傘部隊は「空の神兵」として大いに喧伝され、のちに作られた映画や軍歌のヒットと合わせて国民に広く知られ親しまれることになる。, 2月19日、金村支隊(第48師団台湾歩兵第1連隊の一部)がバリ島に上陸した。守備隊の抵抗はほとんどなかった。だがカレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊のうち軽巡洋艦3隻、駆逐艦7隻が出撃し、19日深夜から20日早朝にかけてバリ島沖海戦が生起した。日本艦隊は駆逐艦4隻と劣勢であったが、ABDA艦隊は多国籍艦隊のため部隊として円滑に行動できるものではなかった。日本軍が駆逐艦1隻大破の損害を受けたのに対して、ABDA艦隊は駆逐艦1隻が沈没、軽巡洋艦1隻が中破し撃退された。, 当時のチモール島は西半分がオランダ領、東半分が中立国であるポルトガル領であった。開戦直後の12月12日に、事前の協定に基づきオーストラリア軍が上陸していた。20日未明に東方支隊による上陸作戦が行われた。チモール島西部のクーパンには伊東支隊長が指揮する歩兵第228連隊第1、第3大隊基幹の部隊が上陸し、さらに横三特の空挺部隊が降下した。連合軍の守備兵力は1,940名(オーストラリア軍1,500名、蘭印軍240名、現地軍200名)であった。日本軍は3方向からの包囲攻撃を企図したが、連合軍はクーパンを放棄して退却しようとした。退路を塞いでいた日本軍の右翼隊200名は連合軍の脱出を阻止しようとしたものの半数が死傷する損害を受け突破された。日本軍は追撃し23日に連合軍は降伏した。連合軍の遺棄死体は296、捕虜1,136名であった。東方支隊の損害は戦死67名、戦傷56名であった。, 同日、ポルトガル領ティモールのディリにも土井連隊長の指揮する第2大隊基幹の部隊が上陸した。連合軍の守備隊は1,300名(オーストラリア軍300名、蘭印軍400名、現地軍600名)で、大部分は山地に逃亡した。捕虜は33名であった。同地にあったポルトガル軍はこのときも抵抗しなかった。東方支隊の死傷は7名であった。, 日本軍はついに最終目標のジャワ島へ迫った。第16軍のジャワ島への第一次上陸兵力は55,000名と予定されていた。作戦計画は次のようなものであった。, 第16軍主力は2月18日に仏印のカムラン湾を出港した。ドールマン少将の率いるABDA艦隊は日本軍の上陸を阻止すべく全力をもって出撃し、2月27日、日本軍第3艦隊との間でスラバヤ沖海戦となった。日本軍は重巡洋艦羽黒、那智および軽巡洋艦2隻、駆逐艦14隻、ABDA艦隊はイギリスの重巡洋艦エクゼター、アメリカの重巡洋艦ヒューストンおよび軽巡洋艦3隻、駆逐艦12隻とほぼ同数であったが、ABDA艦隊はやはり部隊としての円滑な行動を欠いた。28日までの交戦で、日本軍の駆逐艦1隻大破に対して、ABDA艦隊ではオランダの軽巡洋艦デ・ロイテルとジャワ、駆逐艦コルテノール、イギリスの駆逐艦エレクトラが撃沈され、司令官ドールマン少将も戦死した。, スラバヤ沖海戦で残存したアメリカの重巡洋艦ヒューストンとオーストラリアの軽巡洋艦パースはジャワ海からの脱出途中、3月1日未明、バンタム湾で第16軍主力を揚陸作業中だった日本軍輸送船団を発見し攻撃をかけた。南遣艦隊の重巡洋艦三隈、最上が応戦してバタビア沖海戦となり、ヒューストン、パースの2隻は共に沈没した。その後、ABDA艦隊はさらにエクゼターと駆逐艦2隻を失って壊滅(スラバヤ沖海戦#掃討戦)し、駆逐艦4隻が辛うじてオーストラリアへ脱出した。一連の海戦の結果、ジャワ島近海の制海権は完全に日本軍のものとなった。, しかし、バタビア沖海戦で日本軍は最上の魚雷誤射により、揚陸艦神州丸(陸軍船舶部隊の特種船。作戦当時は秘匿船名・龍城丸を使用。第16軍司令部指定船)・輸送船佐倉丸(第16軍司令部指定船)・輸送船龍野丸・病院船蓬莱丸・掃海艇が沈没および大破着底している。神州丸(龍城丸)に乗船していた第16軍司令官今村中将も海へ投げ出され、重油の海面を3時間あまり漂流する羽目となった。第1次上陸部隊の揚陸後であったことから被害は小規模に抑えられたも約100名が死亡、また第16軍司令部は中部エレタン・東部クラガン上陸部隊の直接指揮に必要な遠距離用無線機を海没しているが、揚陸作戦・攻略作戦全体に大きな影響は与えなかった。, 3月1日、日本軍は各方面から一斉にジャワ島に上陸した。第2師団は第16軍司令官と共にジャワ島西部のメラク海岸に上陸し、那須支隊(師団主力、支隊長:第2歩兵団長那須弓雄少将)、福島支隊(歩兵第4連隊基幹、支隊長:福島久作大佐)、佐藤支隊(歩兵第29連隊基幹、支隊長:佐藤半七大佐)に分かれてボイテンゾルグとバタビアへ向かった。この進路は連合軍でも予想するところであり、「ブラックフォース」の主力部隊が守備し、道路は阻塞され、橋梁は徹底的に破壊されていた。第2師団は犠牲を払いつつ、橋梁を修復しながら苦心して前進した。首都バタビアは佐藤支隊が5日21時に占領、世界一の植物園で知られていたボイテンゾルグには那須支隊が夜襲をもって突入し、6日4時に占領した。, ジャワ島東部のクラガンに上陸した第48師団はジャワ島東部の中心都市スラバヤへ向けて進撃し、各地で蘭印軍を圧倒、6日後には東部兵団司令官イルヘン少将を降伏させた。同じくクラガンに上陸した坂口支隊は、兵力が少ない上に、目標のチラチャップまで400キロを踏破せねばならないという困難な任務を命ぜられていたが、トラックに分乗して10か所の蘭印軍陣地を突破しつつ驀進し、7日にチラチャップへ突入した。, 東海林支隊はジャワ島中部のエレタンに上陸し、直ちに若松満則少佐の第1挺身隊(歩兵1個大隊基幹)と江頭多少佐の第2挺身隊(同)に分かれて進撃を開始した。若松挺身隊の目標はカリヂャチィの飛行場であった。8時に海岸を出発、舗装道路をフルスピードで前進し、11時30分に飛行場へ殺到した。交戦1時間、守備隊はよく抵抗したが、日本軍の6名の決死隊が側面から迂回して飛行場中央の指揮所へ斬り込みをかけこれを占領、日章旗を掲げた。守備隊は撤退した。, 3日、蘭印軍はカリヂャチィを奪回すべく、バンドン要塞から戦車と装甲車を連ねて逆襲に転じた。若松挺身隊は、必死の反撃と、飛行場へ進出した第3飛行集団の航空支援により蘭印軍を撃退したものの、平地の飛行場にとどまっていては防御し続けることは困難であると考えられた。バンドン要塞には5万の連合軍があると予想されていたが、若松少佐は、進んでバンドン要塞の一角を奪取し、そこで防御することを考えた。7日2時、若松挺身隊700名はバンドン要塞外郭のレンバンの町に電撃突入し、山頂線の重要陣地を占領した。, 日本軍突入の知らせにバンドンの蘭印軍司令部は驚愕した。要塞はいまだ守備を固めている最中である。日本軍がわずか数百名のみで突入してくるはずはなく、背後には大部隊が控えているに違いない。7日22時、あっけないことに、バンドン地区防衛兵団司令官ペスマン少将は若松挺身隊へ降伏を申し入れた。, 降伏の交渉は8日16時からカリヂャチィで行われた。蘭印総督チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタックハウエル(en:Tjarda van Starkenborgh Stachouwer)らはバンドン守備隊のみの降伏を主張したが、日本軍は連合軍全部の降伏を要求し、蘭印側も結局受け入れた。9日午前、ラジオ放送で降伏の指示が伝達された。12日にバンドン東方の英豪軍8,000名が降伏し、連合軍全部の降伏が完了した。オランダ側からインドネシア人に襲われる恐れがあるとしてピストル携行の許可を求められると今村中将は承諾した。, 日本軍は10日の陸軍記念日にバンドン要塞へ入城した。ジャワ作戦中の第16軍の損害は戦死840名、戦傷1,784名であった。, 第16軍の兵力は、第38師団、第48師団、南海支隊などの配属後は人員97,800名、外に航空部隊の地上勤務員10,000名と予定された。うちジャワ島へ第一次上陸した兵力は55,000名であった。第16軍の中核となる第2師団(仙台)は1941年9月16日に内地で動員された。建軍以来の精鋭師団でありバタビアとバンドンの攻略を成し遂げるであろうと期待されていた。第38師団は1939年に編成された師団で、南支の沼沢地帯で作戦中であった。沼沢地帯に慣れたこの師団はパレンバン攻略に最適と考えられた。第48師団は1940年にマレー半島での作戦を想定して編成された機械化部隊で、開戦時には海南島に集結していた。パレンバンの攻略には空挺部隊である第1挺進団の投入が検討された。日本では空挺作戦の研究は1940年頃から始まり、1940年12月に初めて浜松の陸軍飛行学校内に挺進練習部が設置されたばかりであった。第1挺進団は進駐先の仏印で編成され降下訓練を始めていた。またメナドの攻略には世界的にも珍しい海軍の空挺部隊の投入が予定された。, 大本営ではジャワ島上陸を太平洋戦争の開戦から103日、攻略完了を同120日と予想していたようである[15]。, アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリアからなる連合軍は1942年1月にABDA司令部を設置し、蘭印へ増援部隊を送るとともに、フィリピンとマレーで日本軍と交戦中であった部隊も順次蘭印へ後退した。地域連合軍の総司令官はイギリスのウェーベル大将であったが、シンガポール陥落後にインドへ脱出し、ジャワ島防衛の指揮はテル・ポールテン中将に任されることになった。, ジャワ島にあった兵力は、3月1日に日本軍がジャワ島に上陸した時点で蘭印軍65,000名、米英豪軍16,000名の合計81,000名を数えた。蘭印軍の正規部隊は4個歩兵連隊基幹の25,000名に過ぎず、師団司令部は形式上3個置かれていたが各師団の実戦力は日本軍の師団にはるかに及ばなかった。米英豪軍の主戦力は、オーストラリア軍の指揮官アーサー・ブラックバーン准将にちなんで「ブラックフォース」と呼ばれていた歩兵2個大隊基幹の部隊であった。, ティモール島の東半分は中立国のポルトガル領であったが、オランダ領である西ティモールへの侵攻経路になる可能性があると思われたため、開戦からまもなくオーストラリア軍とオランダ軍が保障占領した。微弱なポルトガル軍は抵抗せず、外交ルートでの抗議にとどまった。, 日本軍のジャワ島攻略部隊の輸送は3次にわたって計画されていたが、作戦が終了したのは第3次輸送が内地を出発する前だった。大本営では事前に開戦後103日頃ジャワ上陸、120日頃蘭印軍降伏と予想していたが、実際の日程は84日ジャワ島上陸、90日蘭印軍降伏申し出、92日降伏というものであった。連合軍は3月25日までにジャワ島内で82,618名が捕虜となった。内訳は蘭印軍66,219名、オーストラリア軍4,890名、イギリス軍10,626名、アメリカ軍883名であった。, 蘭印の資源地帯を確保するという日本軍の計画は成功を収めた。その後の戦争期間中、蘭印は日本の戦争経済を支える資源基地として機能した。レイテ沖海戦でも栗田艦隊はバンカ島で燃料の補給を受け出撃していった。さらに日本軍によるオーストラリア空襲の支援拠点としても機能した上、同地で運航していたオランダ領インド航空の所有機のうち、オーストラリアなどの連合国軍の支配地域へ逃亡できなかった多くの機体が日本軍によって捕獲され、現地の日本軍に組み込まれた。だが1945年初頭以降の大東亜戦争の最終局面では、海上護衛の失敗により内地との交通を絶たれ、豊富な資源を持つにもかかわらず蘭印はその戦略的価値を失った。, 蘭印では現地の反オランダ感情が強かったこともあり、アメリカ軍とイギリス軍の情報部による支援を受けていたフィリピンや仏印、マレーのように親英米派や共産主義者による軍事的な抗日活動が少なかったこともあって、独立運動家の意を受けインドネシアとしての独立を念頭に置いた政策がしかれた。なお、その一環として現地人が日本軍による労働者募集を受けて軍需工場などで働く「労務者(ロームシャ)」として雇用された他、泰緬鉄道建設などにも動員されたが、事故などにより少なくない犠牲者を生み出してもいる。, 日本軍による蘭印の占領は、長年の過酷なオランダの植民地支配に対する現地人による独立運動と母国の国力の低下によりすでに揺らぎ始めていたオランダの植民地支配を終焉させる決定的な一撃となった。日本の敗戦から2日後の1945年8月17日、スカルノやハッタら民族主義者はインドネシアの独立を宣言し、インドネシア独立戦争へと突入していった。この独立戦争には3,000人以上の旧日本軍兵士が参加しインドネシア独立に協力した。, 上記のように、この戦いにおけるオランダの敗北が戦後オランダが同地の植民地を失う決定的な一撃となったこともあり、第二次世界大戦後のオランダはヨーロッパでも最も反日感情の強い国の一つとなった。なお、オランダは多くの日本軍人をBC級戦犯として処刑した上、1971年の昭和天皇のオランダ訪問の際には卵が投げつけられ、1986年にはベアトリクス女王の訪日が世論の反発により中止となった。日本とオランダは400年にわたる交流の歴史を有していたにもかかわらず、オランダの植民地である同地における戦争は両国間にわだかまりを残した。, 悲惨な戦いを強いられた他の南方戦とは異なり、大本営の予想すら超える圧勝で終わったため、日本の帰還兵達は「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と評したという[17]。, この戦闘について、陸軍OBが編集した『戦史叢書 蘭印攻略作戦』では「若林中隊が突入したことによって守備隊は白旗を掲げた」と記述し、海軍OBの手による『戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』では「若林中隊は密林に阻まれ、到着時には戦闘の大勢は決していた」と記述している。, 戦史叢書は「ヒスリング」としているが、蘭印軍第1師団長はWijbrandus Schilling少将なので「スヒリング」が正しいと思われる。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=蘭印作戦&oldid=78341687, 航空戦力は、第3飛行集団179機、蘭印部隊50機、第11航空艦隊190機、第1航空艦隊(機動部隊)190機を予定。第16軍主力の地上作戦には第3飛行集団が、第48師団の地上作戦には海軍機が直協する。k, 防衛庁防衛研修所戦史室(編), 『戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』, 1969年, Ref.C08030091000「昭和17年1月18日~昭和17年2月16日 蘭印部隊第2護衛隊(1)」, Ref.C08030091100「昭和17年1月18日~昭和17年2月16日 蘭印部隊第2護衛隊(2)」, Ref.C08030091200「昭和17年1月18日~昭和17年2月16日 蘭印部隊第2護衛隊(3)」, Ref.C08030091300「昭和17年1月18日~昭和17年2月16日 蘭印部隊第2護衛隊(4)」, Ref.C08030091400「昭和17年1月18日~昭和17年2月16日 蘭印部隊第2護衛隊(5)」, Ref.C08030091500「昭和17年1月18日~昭和17年2月16日 蘭印部隊第2護衛隊(6)」, Ref.C08030091600「昭和17年1月18日~昭和17年2月16日 蘭印部隊第2護衛隊(7)」, Ref.C08030091900「昭和17年2月16日~昭和17年2月24日 蘭印部隊第2護衛隊(1)」, Ref.C08030092000「昭和17年2月16日~昭和17年2月24日 蘭印部隊第2護衛隊(2)」, Ref.C08030092100「昭和17年2月16日~昭和17年2月24日 蘭印部隊第2護衛隊(3)」, Ref.C08030046200「昭和16年12月13日~昭和17年3月26日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」, Ref.C08030046300「昭和16年12月13日~昭和17年3月26日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)」, Ref.C08030046400「昭和16年12月13日~昭和17年3月26日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)」, Ref.C08030046500「昭和16年12月13日~昭和17年3月26日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)」, Ref.C08030046600「昭和16年12月13日~昭和17年3月26日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)」, Ref.C08030046700「昭和16年12月13日~昭和17年3月26日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)」, Ref.C08030046800「昭和16年12月13日~昭和17年3月26日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)」, Ref.C08030042300「昭和16年12月16日~昭和17年2月28日 第5戦隊戦闘詳報戦時日誌(1)」, Ref.C08030042400「昭和16年12月16日~昭和17年2月28日 第5戦隊戦闘詳報戦時日誌(2)」, Ref.C08030042500「昭和16年12月16日~昭和17年2月28日 第5戦隊戦闘詳報戦時日誌(3)」, Ref.C08030042600「昭和16年12月16日~昭和17年2月28日 第5戦隊戦闘詳報戦時日誌(4)」, Ref.C08030042700「昭和16年12月16日~昭和17年2月28日 第5戦隊戦闘詳報戦時日誌(5)」, Ref.C08030043000「昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」(スラバヤ沖海戦), Ref.C08030044000「昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)」, Ref.C08030743300「昭和16年~昭和17年 大東亜戦争綴 (第4戦隊高雄)(3)」(マレー沖海戦), Ref.C08030743400「昭和16年~昭和17年 大東亜戦争綴 (第4戦隊高雄)(4)」(蘭印風俗民族紹介), Ref.C08030743500「昭和16年~昭和17年 大東亜戦争綴 (第4戦隊高雄)(5)」(蘭印戦戦果紹介), Ref.C08030743600「昭和16年~昭和17年 大東亜戦争綴 (第4戦隊高雄)(6)」(3月2日バリ島南沖の海戦).